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満足は私たちの生を殺す――2021年の夏と、メギド9章2節

連日浅薄で目にするのも苦しいニュースが続きますね。お元気でお過ごしでしょうか。

わたしはワクチン2回目の副反応にやられたり、低気圧でぶったおれたりしていました。

yawaraka-kinyudo.hatenablog.com

いま、私たちはさまざまな面でふるいにかけられています。医療をはじめ、多くのものが制限される中で、何を実現するのが良くて、何がそれにはあたらないのか、常に考えなければならない状況です。

自分の過ごし方に差しさわりがなければ、あとはなんでもいいと考えている方もいるのではないかと思います。そうしてそれが先鋭化し、こういう意見もあるのだと代表を立てるようになると、くだんの動画のような例が生まれてしまいます。

もちろん自分自身の精神衛生をよいように保つことはなにより大切ですが、そのほかの世界の出来事についても、目を向け、知る努力をおねがいします。

ところで先月末に発表されたメギド72の最新章、大変誠実で素晴らしいストーリーでした!

メギド72については過去こういう記事を書いています。

yawaraka-kinyudo.hatenablog.com

yawaraka-kinyudo.hatenablog.com

 ここのところ、じぶんをじぶんとして認め生きていくということが、わたし個人だけでなく、広く世間的にも難しくなっていると感じていました。9章2節は、こういった困難さに対するブレイクスルーになりうるストーリーだったと思います。

このゲームは戦闘をしてストーリーを読む、という繰り返しなので、期間限定の無料公開などの形で簡単に読んでもらうことが出来ません。バトルとストーリーが一体化しているからこそ、小説でも漫画でもなく、スマホゲームとしての独自の体験として成立しているのですが。

しかしながら、9章2節に含まれるエッセンスについては、なるべく迅速に広く共有される必要があると感じました。今回は、2021年の夏、この社会に垂れ込めた重たい風潮を読みながら、ほとんどベターっと9章2節の紹介をしていきたいと思います。

この趣旨上、9章2節までのネタバレを大いに含みますし、意図が変わらない程度に簡略化したり、わかりやすく丸めた部分もいくつかあります。

気になった方は是非、アプリ本編をプレイし、この物語を体験していただければなと思います。

 

※※※
以下、9章2節のネタバレを大いに含みます。

加えて反出生的なアイディアを交えた内容となっています。
けして肯定するようなものではありませんが、紹介自体が心に混乱を呼ぶ可能性もありますので、重々ご承知のうえ、気分が悪くなったらすぐに読むのを取りやめてください。
※※※

 

私たちは根本的に、「自分が生まれたこと」を肯定することが出来ておらず、この問題は本当に深刻で、それぞれの心にピンホールほどの影を、しかし確実に落としています。
苦しみの多い世界にあって、それでもこれまでさまざまな人がいろいろなことを積み重ねてきました。いかなる分野も先駆者の存在は有難く、それでいて重苦しいものです。21世紀に入ってから、諸分野の技術的・理論的限界が、私たちにまとわりついて離れません。
反出生主義について、必要最低限の紹介をしますと、「生まれてくるべきではない/生むべきではない」という2つの発想が存在します。論者は、苦しみの再生産や必ず迎える死を根拠にして、そういった主張を説明しています。
実際には自分の思想はこれですと堂々掲げる人が多い……とまではいかない、のが正直な体感です。しかし少なくとも今現在、「子どもを産むほうがイレギュラー」な世界観を持つ若い世代は多いのではないかと思います。「幸せに(=金銭的・精神的満足)育てられる保証もないのに、どうして安易に子どもを産むのか」という声は、小児虐待のニュースの度に目にします。
(もちろん、金銭的・精神的な満足感が得られないことと、虐待は別の問題です。困窮はよすがを探すことが出来ますが、虐待は根本的に破壊行為です。)
また、「生まれてこなければ」と考えた夜がある人も多いでしょう。年々自殺者は増え、悪意ある哲学が共有されていきます。絶望や死はいまやカジュアルに消費され、私たちにまとわりついていて、それが常となっています。
今となっては、生きていくことを肯定するために、生きていくことを肯定できない視座を無視できません。ある程度までは「語らない」ことに意味があり、そんなものはないと見なすことが正しかったかもしれませんが、今日びその態度はかえって不誠実なものであると思います。
本質的にわたしたちが自分の生を肯定できないのは、個々人の抱える無力感、劣等感、虚無感からくるものでしょう。あるいは、わたしたちが生まれる前にとっくに成熟していたさまざまなストーリーに対するものかもしれません。予めは誰もが欠けた存在です。元々使命や譲れない「何か」を持っているわけではありません。しかし、00年代以降の冷笑的な空気の中で、その「何か」を探す試みすら肩身の狭いものになってしまいました。

もはやわたしたちは、生きていく意味を見出すこともないまま、自己肯定感を得ることもできず、自分の欠けた部分を見つめ、亡霊のように過ごしています。だから、強い論調に引き寄せられ、その思想のためなら大いに攻撃的になってしまったりして、そのたびに考えます。はたしてこれが望んだことなのだろうか――と。

 

メギド72を知らない方のために簡単に説明すると、このゲームは、「ソロモンの指輪」を持つ主人公が「メギド」と呼ばれる異世界を出自とするキャラクターたちにフォトンエネルギーを供給し、異世界「メギドラル」と戦っていくという内容です。「メギド」たちは超常的な力を持つほかに、強い使命感(「個」の意識)とその実現のため、あらかじめ他者との闘争を望むようにデザインされた存在です。

このゲームの面白い点は、主人公の仲間となる「メギド」たちの中には「追放メギド」も含まれているという所です。故郷「メギドラル」を追われ、あるいは自ら後にし、無力な一ヴィータ(人間)に転生して、主人公と共にその体制に牙を剥く、その逆境からのカウンターが大きな魅力です。

転生した「メギド」たちの多くは、あるときふと自分が「メギド」であることに気付き、これまでヴィータ(人)として生きてきた意識と折り合いを付けるように、あるいはどちらかがどちらかを飲み込む形で、精神的なつじつまがつけられます。その際、記憶を失ってしまうことはありませんが、闘争を望む「メギド」としての意識が強く、ヴィータ(人)としての意識を上回った場合、これまでの人生が他人のもののようにぼんやりと感じられてしまうことはあるようです。

 

9章2節のメインとなるキャラクターは、アムドゥスキアス。彼女は「わたしはメギドである」「名前はアムドゥスキアス」ということ以外、ほとんどすべてを忘れたまま、主人公たちに出会うまで、籠りがちに本を読んで過ごしていた少女です。

アムドゥスキアスの詳細情報 - 【公式】メギド72ポータルサイト

ヴィータ(人)としての名前はソーラ。善良で優しい心の持ち主で、本の世界へ親しんでいるからか、それともメギドとしての欠落を埋めたいがゆえなのか、ほんのすこしだけ、かっこよさやダークさへの憧れが強いキャラクターです。

9章1節ではこのアムドゥスキアスに外から器があてがわれる形で、「メギド」としての覚醒がなされ、味方であるはずの主人公たちの軍勢を破壊して回りました。その行動は彼女の意思なのか?彼女は今何を思うのか?そしてこれからどうしたいのか……主人公たちはそれを考えていくことになります。

もうひとり、9章2節で大きな軸となり、アムドゥスキアスと対峙するキャラクターがいます。プルソンです。彼もまた、「メギド」としての記憶をほとんど失ったまま、主人公たちと共に旅を続けてきたキャラクターです。

プルソン(バースト)の詳細情報 - 【公式】メギド72ポータルサイト

ヴィータ(人)名はエルデ。力の暴発から、自分の住んでいる街を半壊させてしまった過去がありましたが、気のいい友人や大人に恵まれ、最後は自分の精神的な力で暴走を抑え込みました。しかし、そのころからプルソンは(思春期にままある、理想を求める心の動きも込みで)「エルデとしての自分ではなく、メギドのプルソンの自分が前に立つべきなのではないか?」という問いを背負い込むことになります。

これに答えを出したのが9章1節です。純粋なメギドのプルソンの意識は、エルデとして生きた時間もまた自分であると答えを出し、人格をエルデに譲って、深層に沈みます(といっても、プルソンとエルデの人格はそう異なるものではないようですが)。

アムドゥスキアスとプルソンは年も近く、悩みも近い場所にあり、9章1節では不安を互いに共有します。

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この会話ののち、プルソンは「じぶん」になり、アムドゥスキアスもまた「じぶん」になったのですが、その現出は全く異なるものになったわけです。

 

ストーリーを読むにつれて、アムドゥスキアスがなぜほとんど記憶を持たないままでいたのかがわかってきます。彼女は実験的に器を与えられ、そこに魂が吹き込まれる形で発生したメギドであって、他のメギドがあらかじめ使命や意思、「個」を持って生まれてくるのとは全く異なる機序だったのです。

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彼女を製作したのは、体制に反するメギドを秘密裏に処理するための機関でした。足のつかない純粋な兵隊を必要とする彼らは、人工的な人員補充の方法を編み出そうと考えたのです。

しかし、誰かを消して回ることは、闘争本能すら持たないアムドゥスキアスにとって、いいことなのか悪いことなのか、判断ができません。多くをつぎ込み作られた彼女は、生まれた意味に応えたいと思いながらも、ついに稼働することはありませんでした。

機関はアムドゥスキアスを覚醒させるために半身を作ります。闘争本能を埋め込み、よりメギドとして野心的になるようなアダプターです。しかし、それにも彼女は応えません。

困った彼らは、アムドゥスキアスの欠落に注目し、いつか機関に帰ってくることを信じて、追放してしまうことにしたのでした。

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機関「フライナイツ」の目論見はある意味では成功しています。彼女は実際に、自分はメギドであるはずなのに、その根拠がない、記憶すらもおぼつかず、確信が持てないことにひどく苦しんでいました。

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夢見がちで読書に耽溺している普段の姿を知っている者からは、空想の世界の話だと思われ、自分自身でもそうなのかもしれないと思い始めていた矢先に――主人公の召喚を受け、確かに自分がメギドであることが分かったのです。

生来の善良さ、物語の世界への憧れゆえに、彼女は仲間たちに貢献しました。とりわけ誰かを助け、身を守る形で、時には誰もかれも壊滅的な状況になっても、つとめて誰かを守る意思を持ち続けました。それはそう望まれたからではなく、彼女自身がそうしたかったからです。自分を認めてくれた人たちのことを大切に思っていたからです。

しかし、この物語はそこでは終わりません。

彼女は作戦の途中、かつて作られた半身と出会ってしまいます。その機関が彼女の存在に気付き、いよいよ持ち出してきたのです。惹かれ合うように半身と彼女が一体化したのは、機関が考えた通りに「自由の困難さ」を知ったからなのでしょうか?あるいは、製作者に報いることを思い出してしまったからでしょうか。

半身と一体化した彼女は仲間たちを潰して回ります。心の内の悲鳴をすりつぶし、抑え込むように、容赦ない攻撃を加えます。それは半身に書き込まれた「闘争本能」からではなく、ついぞ稼働することのなかった一己の兵士「アムドゥスキアス」としてのものでした。

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世界を知り、欠落したところにさまざまな経験が吹き込まれたとき、アムドゥスキアスは皮肉にもその世界に刃を向ける存在となったのです。

しかし、これは本当に間違ったことでしょうか。ヴィータ(人)のソーラにとっては苦しく耐え難いことだったとしても、その役割を望まれて生まれてきた魂なのであれば、本懐といえるのではないでしょうか。アムドゥスキアスを追いながら、主人公やプルソンたちはずっとそれを考え続けていくことになります。

少なくとも、今、かつての自分に別れを告げようと仲間たちを攻撃したアムドゥスキアスの決意を尊重するならば、ただ腕をつかんで連れ戻すというのでは足りません。もう一歩踏み込んで、果たして彼女の遂げたい意思がどこにあるのか、というところを探らなければなりません。まさしくプルソンは、アムドゥスキアス本人にそれを指摘されます。

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しかし一方で、アムドゥスキアス本人にも迷いがあります。彼女は半身から注ぎ込まれた闘争心と機関の意思とに従っているにすぎず、また、自分自身ともいえる「ソーラ」の意思を抑え込んで行動しているわけですが、それをぬぐいさってあまりあるだけの成果、製作者への応えを示すことが出来ません。純粋に戦い始めてまだ日が経たないことも、迷いを抑えるだけの負担もどちらも関係していることでしょう。その鬱屈とした感覚は奇しくも、確証のないまま「メギドである」ということだけを信じて生きていた、既に殺したはずのソーラとしての日々と重なります。

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そしてアムドゥスキアスは、思いを振り切るように、再び主人公たちに追って掛かります。

主人公たちは脅威の対象であるアムドゥスキアスを、もはや無力化するか、仲間にするか、どちらかしか方法がありません。できればこれまでと同じようにもう一度仲間に戻ってきてほしいと誰もが望んでいますが、それが今の彼女の意思を無碍にするものなのであれば……と躊躇させ、踏み込む足を重くします。

わたしは、ここで見せるプルソンの態度が好きです。

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プルソンは先に指摘されたとおり、かつての、記憶を失っていたころのアムドゥスキアスをあくまで迎えに来たのです。2つの相反する彼女の意識を混同せず、それを明らかにすることで、むしろ今の彼女を一つの自我として認めた形です。

だから、プルソンは今の彼女と対峙します。今の彼女が「じぶん」になった結果なのならば、プルソンの知っているアムドゥスキアスとは相容れない存在だから。そして、プルソンの知るアムドゥスキアスなら、今のアムドゥスキアスを決して抑え込んだり、消してしまったりできないと確信しているからです。

その上で、プルソンは、プルソンの知っているアムドゥスキアスにも言葉をかけます。

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プルソンや主人公たちの、「アムドゥスキアスに帰ってきてほしい」という思い、今のアムドゥスキアスの「やっと得た自分を認めたい」という思い、それぞれの意思の下、2つの陣営はぶつかることになります。

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アムドゥスキアスはここで初めて、誰かのためではなく、自分自身の証明のために戦争をすることになります。それは、彼女を彼女と認めるプルソンの存在があってこそのことでした。

 

結論から言えば、アムドゥスキアスは敗北し、プルソンや主人公たちは彼女に勝利します。負けた彼女は敗者の常として、自らの意思で消え去ることを決めます。

ここまで長くたくさんのキャプチャを貼ってきたのは、このシーンをどうしても紹介したかったからです。消え去ろうとするアムドゥスキアスと、ソーラとしてのアムドゥスキアスの、最初で最後の対話のシーンです。

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アムドゥスキアスは、確かにソーラでもあって、その人生の中で、歪みや欠落の持つ価値を誰よりも理解し、肯定するのです。歪んだまま、欠落したまま痛みを抱えて生きていくことを、当たり前で価値のあるものだとします。それは単なる慰めではなく、闘争を胸に秘め、常によりよい世界をまなざして生きていくメギドという生き物なりの解釈によるものです。

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そしてソーラは、消えてゆくアムドゥスキアスの代わりに、自分がその名を引き受けることを決めました。それはアムドゥスキアスの感性をたしかに引き受けたことを意味し、彼女はその瞬間、確かにアムドゥスキアスになったのです。

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9章2節の内容の紹介はこれでおしまいです。たくさんのキャプチャと文章を読んでお疲れのことと思います。私の感慨を以下書きますので箸休めにしていただければ。

フッサールは想像や感情移入などを元々あらかじめ持っている自我の変容であると書きました。(それがイメージの中の世界であっても)経験することのできる身体の感覚は変わらないことなどを根拠とし、モノを観測するときの自我を眼差した現象学者です。わたしは基本的に彼に全面的に同意します。何かを見るとき、自分以外の目を借りることはできず、借りたとしてもそれはあくまで借りた「イメージ」であって、自分に他ならないのです。では、複数の自我がひとつの体にあるときはどうでしょうか。卵巣のように、目覚めて活動している自我と、息をひそめている自我が存在するとしたら、どれが自分でどこまでが自分なのでしょうか。

わたしはどれもが自分だと考えます。その肉体で経験したことはすべての自我が経験していて、その経験をどこまでがだれのものだとスライスすることは不可能だからです。

結局のところ、アムドゥスキアスとソーラは相反する行動をしているように見えて、同一の存在なのです。心理作用が現出しているのであって、もっと気付かないレベルの葛藤は、わたしたちの誰の心の中にもあるものです。

それをこうして取り上げてくれるのが嬉しかった。わたしたちは、生きていくことをもはや肯定できないと思いながら、誰よりも自分を肯定しようとしてもがいているのだと、この物語は確かにそれを描き出してくれました。

誰もが認める自分自身でなければならないような強迫感の矛盾を突き、しかしその感覚自体には寄り添ってくれるお話でした。

わたしはメギド72のこういった優しさが好きです。2021年に生きていくために必要な答えを常に提示しようとしてくれる誠意が、他の何にもない、このゲームの魅力だと考えています。

これをここまで読んでくれた誰かが、生まれたことへの苦しみで涙を流す夜、メギド72の9章2節のことを思い出してくだされば幸いです。

 

最後に私の大好きなメギドの曲を貼ります。

 

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

 

 

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