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メギド72・9章が提示したもの――生きること、その意味

メギド72というゲームは本当に特異だと思う。多くの立場から様々なセリフが発せられ、それを統合する形で1つの価値観が示される。バトルをし、音楽を聴き、シナリオを読むことで、誰もがその価値観を体験することになる。比較的ライトに楽しまれることが多いスマートフォンゲームとしてはあまりにも強く輝くメッセージ。それは私たちが生きる現実まで届く光だ。もうなんだか愛としか言いようがないものを叩き込んでくる。メギド72ってラウムかもしれない……。

結論から端的に書くと、9章4節を貫くのは「意思を持って行ったことには意味がある」という価値観だった。
これまでの章やイベントストーリーと接続することで、9章全体に込められた「生きていくことには意味がある。それは意思を持ち、滅びへ抗うという意味だ」というメッセージが見えてくる。この記事では、主に9章の流れを追いながら、どうしてこのメッセージを読み取ることができるのか……その方法を提示したいと思う。

8章で示されてきたこと

8章は魂やその取扱いに関する話を主にするシナリオだった。そこで提示されたのは、さまざまな経緯ややり方で生み出された「魂」というもの、そのすべてを肯定する強いメッセージ性であった。

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しかしながら、価値が「あった」としてもその意味が、なぜあるのかがわからなければ、生を送る当人たちは肯定感を持つことができない。8章で打ち出したメッセージをさらに一歩進めることが9章を通して行われた試みである。

9章1節:生きること、その主体性

現実を生きる人間である私たちは、「自分の生」について、「自分以外の誰かが生きた場合」どうなるか、それを知ることができない。自分の生は自分の意思に紐づいたものであって、自分以外の誰かが生きた瞬間、それは自分の生ではなくなってしまう。

しかしながら、追放メギドたちは特殊な魂のあり方を持っている。メギドとしての魂が、ヴィータの魂を凌駕し、主導権を握っているケースや、メギドとしての魂とヴィータとしての魂がちょうど溶け合うように折り合いをつけているケース。また、ヴィータとしての魂だけが覚醒して、メギドとしての魂が持つ意思を生に反映することのできないケースなど、さまざまがある。

「自分以外の人に自分の生をあげることができたら……もっと有効に使うことができるのではないだろうか?」

こんな誰もが抱いたことのある疑問に対して実現可能性を持つのが追放メギドという存在だ。9章1節ではこの疑問に一つの答えを提示していく。

この節でフィーチャーされるプルソンはメギド時代の記憶をほとんど持たない。「エルデ」と名付けられたヴィータの意識をほとんどそのまま持つ追放メギドである。メギド時代の自分、それが持つ強い力に普段から価値を感じている。シナリオの中で、何かを成すためには、完全に「メギドの自分」に生を明け渡してもいいとすら考える。

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このような追放メギドの持つ魂の不安定さは、他のシナリオにおいても提示される。例えば「小さな君に、伝えたいこと」のジズであったり、「其は素晴らしき戦士の器」のウヴァルであったり、Cアンドラスキャラストなどがそれに該当する。

「自分以外の人に自分の生をあげることができたら……もっと有効に使うことができるのではないだろうか?」

その疑問に対する答えは、メギド「プルソン」によって「エルデ」にもたらされる。

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「エルデ」というヴィータは、「プルソン」というメギドが抱いた「より価値のある生を抱くことができるのではないか?」という疑問そのものであるということ。
そしてその疑問そのものが存在理由であるということ。
だから「エルデ」であり「プルソン」でもある彼の生は、例え満足のいかないものであっても彼自身が主体でなければ成り立たないのだ。

これらの定義を得てプルソンはリジェネレイトし、それに伴ってメギドとしての記憶=過去とヴィータである現在が接続されることとなる。

9章2節:生きていくとはなにか?

これについては過去ほとんど内容を紹介してしまう記事を書いた。合わせて参照してもらえると幸いである。

yawaraka-kinyudo.hatenablog.com

私たちは生きていく上で感じる「物足りなさ」から逃れることができない。より”役に立つ”自分であったならば、より”強い”自分であったならば……。しかし実際にはそれは仮定に過ぎず、その足りない部分を外から埋め合わせてもらえるわけではない。

しかし、この章でフィーチャーされるアムドゥスキアスは、メギドとして必要なもの――戦闘衝動や、戦っていく理由――を後付けされ、暴走状態に陥る。物足りない、弱い自分を否定するために、仲間たちを踏みつけにして回るのだ。そうすることで、イレーザーとして、メギドとして望まれた自分には、追放メギドとして生きていた自分よりも価値があると示すかのように。

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結果としてアムドゥスキアスは倒され、軍団に復帰することとなる。ただし彼女が「リジェネレイト」している以上、そこには確かに変化があったのだ。

あらかじめ望まれた完璧な自分のままに生まれることができれば、生にまつわる悩みは全て存在せずに済む。しかし、現実はそのようにはいかない。私たちは「歪んで」生まれ、「完璧でない部分」、欠けた部分を幻視し、己の生を疑い続けることになる。だからそこに不安が生じる。生きていくことの苦しさは、そこに起因する。

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しかし、ここでメギド72が提示してみせるのは、その「欠落を埋めようとする行為こそが生である」という価値観である。生きていくということは欠けたものを満たそうとすることであり、だから、欠落を感じることは生きている以上当然のことであると。

そして「満足は私たちの生を殺す」。

欠落がなくなった瞬間に、私たちの(精神的な)生はそこで終わってしまうのだ。欠けを埋めようとする必要が失われた時点で、生は殺される。

加えて、この件は「虚無のメギドと儚い望み」に登場するブリフォーによっても補強されている。『個』が欠落したメギドであるブリフォーがそれを埋めようと様々に模索し、自分の欠落を埋めるものを期待して行動する様子は、まさに「生」を象徴するものである。

9章3節:死とはどのように訪れるのか

この節は9章2節と強くリフレインした内容であるが、切り口が大きく異なる。「満たされること」を目標の達成や期待に応えることに設定した2節と異なって、今回提示されるのは「過去」の話だ。ここでいう過去とは、誕生したばかりの遠い昔から、今この瞬間、ゼロコンマ何秒前までのすべてを指す。

この節でフィーチャーされるのは、強い魂を持ち、肉体を失ってもなお生き続けるアスモデウスである。現実を生きる私たち人間は、肉体を強く損傷すればそのまま死んでしまうが、この章で提示される「生と死」は常に精神的なものを指している。そのためにアスモデウスは強靭な魂を持つし、「キノコデウス」になってまで生き続ける。

そんなアスモデウスにすら「死」が訪れることがあるというのだ。それはいつ、どのように齎されるのか?それは次のように説明される。

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ここでいう「過去を殺す」とは過去の否定――そこに満足を覚えないことを指す。どんなに充実した時間であったとしても、それに満足することなく、あるはずの欠落を埋めようとすること、それが「過去を殺す」ということだ。そして、「過去の光に霞まされる」ということは、抵抗が満足に敗北することを指す。

繰り返しになるが、欠落がなくなった瞬間に、私たちの(精神的な)生はそこで終わってしまうのだ。欠けを埋めようとする必要が失われた時点で、生は殺される。

アスモデウスが『混沌より愛をこめて』の中で歌う「私が私であるために戦ってく」「私が私であるように戦ってく」の指すところが、ここでずばり明かされることとなった。

ここまでで提示されたこと

これまで見てきた中で示されてきたことを簡単にあげると次のようになる。

  • 生きていくことは「疑問」を覚える本人がしなければならない。
  • 欠落を埋めようとすることそのものが生である。
  • 満足した瞬間に生は殺され、死が訪れる。

では、このような煩わしい生には果たして意味があるのだろうか?何のために私たちは生きていかなければならないのだろうか?これを示していくのが9章4節である。

9章4節:生きること、そのものが持つ意味

私たちは巻き込まれるようにいつも火事の中に放り込まれる。そこにあらかじめ主体性はない。生まれてくることすら受け身だから、苦しむ。生きていくことが主体的でない限り、自分の生を送ることができない限り、この苦しみから抜け出すことはできない。

※余談

9章4節ではかなり残酷な描写が為された。これは上記の通り「抵抗」を生の意味だと設定するメギド72において、「抵抗感」を読者に与えるために意図的になされたことだと思う。傷つくことは当然であって、受け入れる必要もない。もちろん、なにか注意喚起があっても良かったかなとは思う。ユーザーは傷つくために物語を読んでいるわけではないのだから。

本題に回帰すると、この章を象徴する存在はアンチャーター・ロクス/偽ルシファーという「生そのものに意味を与えられなかった」キャラクターである。「無意味」の存在を許容するために偽ルシファーは他者の尊厳を破壊する。


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これは、「個」という使命を持って生まれてくる(ことが多い)メギドにとって致命的だ。メギドの発生はカトルスを由来とした危機意識の発現である。それを破壊し拒絶することはまさしく存在意義、生まれてきたきっかけの否定に他ならない。それですら偽ルシファー自身の恣意性を含む=完全な無意味にはならないと知っていて──しかし偽ルシファーは完膚なきまでの無意味さを他者に求める。当たり前に残酷で、当たり前に切実だ。

イサーク・バーベリという作家はこのような残虐行為について次のように描写している。

「俺に言わせれば、銃で撃ったんじゃ、たんにあいつをあの世に送るだけだ。(中略)銃で撃ってしまうと、魂ってものがわからない。それが人間のなかのどこにあるのか、どんなものなのか、わからない。俺は面倒くさがらずに、一時間以上、何度も何度もあいつを踏んづけてやった。俺は、命ってものがほんとうはなんなのか、命は人間の体のなかでどんなふうになっているのか、知りたいんだ」*1

偽ルシファーは間違っていたのだろうか? わたしたちは他害をしてはならないが、それをしなければ/してもなお満たされることのない飢えはどうすれば良いのだろうか? 生きることを肯定できず、死ぬことすらままならない時、どのようにしてこの欠けしかない命を埋めればいいのか? オリジナルのルシファーの魂さえ吸い込んで、他害を娯楽としながら生きている偽ルシファーはその行為全てで叫んでいる。それはもはや意思としか呼びようがない。


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しかし、これまで見てきた9章はどうにかそこに答えを出そうとする。

つまり、生まれて生きていくことが先で、自分は後にあるのだ。これまで追ってきたソロモンたちの抵抗のすべてを遡って、このシナリオは生きていることを肯定する。

これまで軍団のメギドたちは様々な個──行動理念、使命感に突き動かされて、状況に抗い、多様な活躍を見せてファンである私たちの心を強く動かしてきた。それなのに、その「個」=自分自身ですら生の意味や根拠にはならないのだという。


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その狙いはわたしたちが生きているだけで行われること──「死=滅び」への抗いを寿ぐことにある。

それは時に行動を伴う──例えばプルソンにとっては大盾に刻んだ一撃であり、アムドゥスキアスにとってはその名を持つことであり、マモンにとっては特殊な転生、リヴァイアサンにとっては後進の育成と雲隠れ、ベルフェゴールにとってはゲートと棄戦圏の管理として。

そして偽ルシファーにとっては死ぬことを前提に生きること、ドラギナッツオにとってはその望みを叶えていつか死んでもらうことである。しかしこれらは、もはや行動の前段階にある。その上、ごく個人的なやりとりとして描かれる。


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生きているだけで行われる「死=滅び」への抗いを、意思だと認めること。そこに自分を含めた誰かが意味を見出すことやその期待、祈り。

これこそが9章4節のメッセージである。

「死なずにいることが既に抵抗、その意思は生きる意味」

これと前章の全てが繋がると、見えてくるメッセージは、文面以上にとても複雑で強い。

「生きていくことには意味がある。それは意思を持ち、滅びへ抗うという意味だ」

個人的にはこのリヴァイアサンのセリフが、大味な性格と相まってよく見に沁みた。

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これらの前提があってようやくソロモンは、メギドという生き物の傀儡性に手をつけることができる。生まれるとか、生きるという言葉の持つ繊細さをここまで解きほぐしてこの言及を生む。


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これは外なる出自を持つソロモンと当事者であるメギドたちにしかなし得ないことだし、しかし、そのために超えるべき前提をどうにか超えようとしてきた。

とんでもない作業だ。でもだからこそ、ここでようやくソロモンは己の「遠き情景」を手に入れるのだ。

ここまで書いてきて、当たり前に仔細を取り漏らしているのだが、メギド72というゲームがとてつもなく丁寧に生の肯定をした事実をどうしても残したかった。正直生とか命とかいうのは恥ずかしいし苦しい。ただ、メギド72というコンテンツが与えてくれたものを何かにせずにはいられなかった。そういう欲があった、ただそれだけのことだ。

こんなに信じてしまって、(こちらが)号泣させられて、今後が空恐ろしいが、今このゲームを愛していてよかった、出会えてよかったと思う。

願わくはわたしも抵抗するものであるように。

‎「メギド72」をApp Storeで

追記:とても嬉しかったことを書き忘れていた!偽ルシファー、アンチャーター・ロクスの戦闘BGMに『混沌より愛を込めて』のフレーズが使われていたことがこの上なく喜ばしかった。あの歌は、場面は、48話のアスモデウスと強く強くリフレインするものだったからだ。

*1:Babel, The Collected Stories, Criterion Books, New York, 1995