やわらか金融道

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日記:泡の中を生きるということ

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タトゥーを増やそうかと思っている。

大好きなコンテンツの話をした次に投稿するのがこのブログだということが本当に悔しくてならない。私たちは誰もが良い思いをしたくて、意図せず他者を蔑ろにしてしまうことがある。今回のウクライナ侵攻はそうではない。意図され、計画され、現実に起きている問題だ。

コロナ禍に突入してから、ずっと一人ずつの泡の中に閉じ込められていたような感覚があった。隣の泡が潰されても他人事のような……想像の力を借りて自分のことにしようとしても、現実味が足りなくて、今、あなたとどうか話がしたいと思う。

そういう時にフィクションの力に頼るのは、余計に事態を現実味のないものにすることなのかもしれない。だとしても、身を切る痛みを直接感じられないのならば、なにかに代替させてもいいからそれがいかに耐え難いかを、私自身も、そして社会を生きる一人一人も知る必要があると思う。

なぜなら、このままでは実害が出る。元に戻すことのできない喪失が生まれる。その前にどうしても私たちは話をしなければならない。その手段をもう選んでいられない段階に来てしまった。

少し話は逸れるが、友達に「何にでも怒る必要はない」「あなたは『私のように怒れる(健康で若い)人間が怒らなければ』と言うけれど、あなたはうつ病なんだよ」と言ってもらったことがある。私は、私の体をあまり気遣わないから嬉しかったし、まずもって正論である。これを読んでいる人の中に、自分の体に支障が出るほど、ある問題に入れ込んでしまう人がいれば、あるいはそういう人を知っていれば、どうか止めてあげてほしい。怒りや悲しみは自分から止めることができないから。

それでも私は、どうしてもこの時代を、この言葉を忘れたくないし、より鮮烈で、かけがえのないものとして残したい。二度と繰り返されるべきでないことがたくさんあった。そういうものを少しでも掬うために、文章を書いたり、考えたりしている。

ところで、今日読んでいたエーリッヒフロムの「愛するということ」から一つ引用してこの記事を終わりたい。

秘密を知るための方法がひとつある。ただし絶望的な方法である。それは、他人を力で完全に抑えこむことである。力によって、その人を私の望むように動かし、私の望むように感じたり考えたりさせるのだ。それによって、その人は一個の物になる。私の物、所有物になる。人を知るためのこの方法を極端にまで推しすすめると、サディズムになる。サディズムとは、人を苦しめたいという欲望であり、実際にそうする能力である。人を拷問にかけ、苦しめて、秘密を白状させるのだ。人間の秘密、相手の、そして自分の秘密に迫りたいというこの渇望こそ、人間の残虐行為の激しさの背後にある本質的な動機である。