メギド72が大好きです。
このゲームは本当に特異なゲームで、エンタメ性やわかりやすさ、拡散性と引き換えになったとしても、そこにいるユーザー、ひいては現実を生きる個々人のためにシナリオやキャラクター造形を行っていると感じます。
ましてや「多様性」なんていう年々重くなる看板を抱えて、それでも期待を裏切ることなく私たちを喜ばせ、泣かせ、憤らせ、楽しませてくれるのです。
今回はそんなメギド72のどこがそれほど誠実なのか、ということについて、特にシナリオから見えるものを思いつく限り書いていきたいと思います。
同じソロモン王に納得してもらうのも、新たな視点を持って帰ってもらうのも嬉しいですが、新しくゲームを始めてもらえ、この最愛のゲームに貢献できるたらこれ以上望むことは何もありません。
ゲームをプレイしても、していなくても、する気がなくても、これから書く内容でメギド72のことを好きになってもらえたら嬉しいです。
世界観、ゲーム全体のこと
軍団「メギド72」──目的のもとに連帯すること
このゲームのざっくりした世界観は以下の通りです。
舞台は臨界ヴァイガルド。
この世ならぬ「幻獣」により突然平和な村を滅ぼされた主人公は、「追放メギド」と名乗る一行に出会う。
彼らは自らを追放した異世界「メギドラル」の企みを食い止めるべく、「幻獣」を倒しながら旅をしているのだ。
祖父から受け継いだ「ソロモンの指輪」が「メギド」の力を引き出すものと知った主人公は、「メギドラル」の侵攻を食い止めるため、「追放メギド」と共に旅立つのだった───
追放メギドたちはそもそもが「追放」された存在です。ただ巨悪に立ち向かう物語でなく、彼らは自分を追放した世界に「そのやり方は間違っている!」と突きつけること、そして現在暮らしている世界を守ることを目標としています。
しかし彼らは彼らとしての暮らしがあるのでます。学校に通ったり、牧場経営をしていたり、領主や王者や貴族もいます。
それでも誰かに任せるのではなく、危機感を持って個々人が自ら立ち上がり、侵略に対抗していきます。
逆に言えば「追放メギド」たちだけが戦えばよいという話ではありません。ごく一般の市民たちも誰もが当事者です。そしてそれは実際に「女王」の口から指摘されるのです。
メギドたちは主人公の元で力を発揮し、戦いに身を投じますが、その行いは結局、一般市民が危機感を持つこと、正しい情報を取り入れて曇りのないまなこで自分たちの敵が誰か見定めること──そういったことと同じ意味合いです。ただ彼らは戦える力を持っている。ならばそれを世界のために使おうと考え、実行します。
またシトリーやマルコシアス、アンドレアルフス、バラムなどのように主人公の元に集う前に既にその使命に取り掛かっているものもいます。
もちろん、その活動は益のあるもの──というより、彼らはそれを益のあるものだと信じているのですが、それは時に孤独を感じさせ、時には残酷な決断を彼らに迫ります。
しかしこれらの戦いは主人公のもとに束ねられ、彼らの立場や力や背景がバラバラであったならばあったほどに、幅広い強さとなります。これがメギド72の示す多様性です。
そしてそんな連帯のためには何か柱となるものが必要です。彼らにとってはそれが主人公で、主人公であるソロモン王は、常にその決断が正しいのか、誰かを侵害していないか、他に方法があるのかないのか、ということを突き詰めて考えています。
彼の強い責任感に裏打ちされた目的と、そこに視線を集める多彩なキャラクター。そしてキャラクターたちの多様な活躍・貢献の仕方……これらはキャラクターのたくさん出てくるゲームを作るにあたって、非常にふさわしい作りだと感じます。
周縁者、辺境の描き方
まずもって、主人公が王都の情報がそのまま届きにくい辺境の村で暮らしていたことが特徴的です。だからこそ彼は遠い地方の問題を看過できず、自分のことのように悼み、いつでも力になるために走っていきます。彼もまた多様性の中にいるキャラクターです。
他にもそれぞれ独特の文化を出自とするキャラクターが出てきます。そんな時、多様性を重んじる彼らはその価値観を否定せず、しかし命だけは最優先させて接するのです。
また主人公たちにとっては脅威であるはずのメギドにさえ、中央の「議会」から遠ざけられている者がいることを描いています。彼らは罪科で追いやられたわけではなく、そこで生まれ、中央と接続する機会を失ったために、生存にすら深い苦痛を伴います。
結局のところ、根底にあるシステムを変えなければ、これらの弱者の問題は解決しません。しかし、だからといって実際に今起きていることを知らないうえで仕組みを変えたところで、それは端まで届かないのです。
そもそも周縁者の存在をこれほど描いてくれる作品は稀有ですし、その上で彼らの抱える「歪み」をメギドラル社会全体の「歪み」と接続して考えることは非常に意味があります。
再定義される「戦争」
このゲームは、相容れない目的意識を持った軍団同士が戦うことを「戦争」だと表現します。もちろん間違ってはいませんが、「戦争」という言葉には重さがあり、生半可に使うべきではない、「争い」「闘い」で代替可能ならばそちらを使うべきなのではと感じます。
しかし、ここでメギド72は「戦争」という言葉を再定義し、覚悟を持って用います。
古い戦歌を口ずさむこのシーンは、あらかじめ闘争を求めるように生まれてきたメギドたちにとって、戦争がどういうものであるのかを象徴しています。勝ち負けやまして生死を競うのではなく、争いによってなにか社会に少しでも影響を及ぼすこと──残すものがあること、それがメギド72が使う「戦争」という言葉の意味です。
出来レースや消化試合のような戦争は彼らにとって不毛で不本意なことであり、戦うのが同じなら双方が何かを求めて意思を示すべきだと考えているのです(もちろん、主人公は避けられるべき争いは避けようと毎回試みますが)。
そしてこのゲームでは多くの犠牲も描かれます。中にはプレイアブルキャラも含まれ、大怪我をしたり、瀕死に陥ったり、一度死んでしまうことすらあります。その現実を描きながら、それでも争わなければならない時、手段としての戦争が行われ、そしてそこにいる誰もが真剣であり、シナリオライターを超えて読者である私たちですら真摯な態度を求められるのです。
フィクションとしてのあり方
メギド72は開発初期から多くの予期せぬ事態を越えていまに至っています。シナリオもなにもかもが恐らく、最初期には予定されていなかった膨らませ方によっていまに至っています。
例えば「メギドクエスト」。
単なる曜日ごとの素材クエストですが、シナリオにて「自分たちを投影した模擬戦」と定義されました。
例えば「メギドの塔」。
時間放置で素材が貰えるという要素ですが、「拾っても尽きない素材はどこから来ているのか?」「なぜ放置=主人公は入ることができないのか?」といった考察が(答えは明らかになりませんでしたが)なされました。
例えば「オーブ図鑑」。
作者がいて、それは代々引き継がれて書き記されたものだということが明らかになりました。
例えば「マップで走る主人公」。
これが積み重ねられ、鍛錬となり、ヴィータ(人)の身でありながらメギドに不意打ちを食らわせられるほどの蹴り、「牙城破り」を習得しました。
あらゆる要素に説明が加えられることで、ユーザーはもちろんプレイが楽しくなります。遊ぶ時にその意味合いが上乗りし、ハイコンテクストになるほどにモチベーションが上がります。
そしてそれと同時に、その機能やコンテンツを実装したプランナーや技術者に対しても、強い敬意が払われているように感じます。ショップの値段設定ひとつ取っても意味があるということは、それを設定したプランナーの仕事の価値がより高まるということです。
そういった意味でメギド72のクリエイション、ブランディングはとても良いやり方でまわしているなと感じます。
キャラクターの取扱い
多様性を標榜するゲームである以上、多様なキャラクターたちが魅力的に描かれることをユーザーは期待します。そしてそれは実際に叶えられます。
戦争をする際はもちろん戦闘がメインとなりますが、場を引っ掻き回すトリックスター、日和見主義のモブたちを扇動する役割、陰に身を潜め暗躍する者、そういった武力以外のいくつもの指標を使って、そのメギドの魅力を最大限に引き出しています。
メギドを手に入れると読むことができるストーリーも、そのメギドが持つバックグラウンドや現在どのように過ごしているのかなどを綿密に掘り下げる内容であり、このゲームの大きな魅力です。
また3Dモデルの手の込み方、モーション、衣装デザイン、などのグラフィック面でも、独自の世界観を研ぎ澄ませている唯一無二の作品だと思います。制作陣がそのメギドについて深く考え、愛しながら作っていることがよくわかります。
話は逸れますが、それほど優れた3DバトルなのにUIを消すことができないのはなぜでしょうか?私の思う答えは二つあります。一つはあくまで「バトルゲーム」であって「鑑賞ゲーム」ではないから。そしてもう一つは「キマる一瞬」を作ることよりも、「動きの面白さ」を重視しているからではないでしょうか?
メギドたちの3Dモデルやモーションは3Dアクションバトルゲームのキャラクターとして特化されていて、そのことがより大きな魅力につながっているんだと思います。
以上①でした。思いついたらどんどん追記していく予定です。
②ではキャラクターについて詳しく書いていこうと思います。