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腐女子大学・過去問題を分析する――CPから始める現象学

こんにちは。すっかり夏の陽気になってまいりましたが、皆さんはいかがお過ごしですか。わたしは相変わらず元気がなく、毎日横になって生活しています。今月中には転居の予定なんですが、荷造りに全く取り掛かっていません。大丈夫なんでしょうか?
目下家電を検討中なので、詳しい人がいればぜひご教示ください。
掃除機はマキタ、洗濯機は乾燥機能付(干すのが面倒で溜める可能性を鑑みて)ということしか決まっていません。

 

ところで腐女子大学の過去問題、皆さんはどう見ましたか?
そもそもそれなに、という人は検索してみてください。本題ではないのでリンクは貼りません。
オッ、と思ったのは、当該アカウントの「AとCはつるんでいる=関係良好、それ以外は不仲なので、そもそもカップリングとして成立し得ない」という説明でした。


宿命のライバルとか袖振り合うも他生の縁とかを舐めて生きてきたオタクとしては、あまり納得できるところではないのですが、まあ順調に(おそらくは好感から恋愛へと)はぐくまれる関係性をしてカップリング、とする人がいることは理解できます。双方の愛のあるコミュニケーションを、カップリングの軸とする層は昔から一定存在するわけで、それだけ共感性の高い判断基準であるということでしょう。


もちろん、この過去問題で与えられたのはABCという3人の関係性にまつわる情報でしかありません。実際に”原作”に触れたとき、どのように転ぶかはわかりません。この問題では指定されていないような行間や、ビジュアルや声などの要素もまた、そのカップリングだと確信する材料になるからです。

 

最近はかなり減りましたが、令和に入るまではよく「左右が逆だともめる」とか、「CPの切れ目は縁の切れ目」というようなツイートが、二週に一度は回ってくるものでした。そして、それを受けた「結局みんな間違ってるんだから、戦っても仕方ない、自分の正しさを証明しようとするな」というツイートが回ってくるところまでがワンセットでした。もしかしたら観測範囲が偏っているだけで今もそうなのかもしれません。

それでは、オタクは何をもってしてカップリングを決めるのでしょうか。カップリングの正しさとはなんなのでしょうか。そしてその基準は本当に共有ができないものなのでしょうか。

 

オタクたちの志向性――CPが持つ意味

「CP表記する」こと自体が持つ意味

前提として、私たちがカップリング表記を用いる具体的なシチュエーションから確認していきましょう。

  • TwitterやPixivのbioに
  • b2オンラインでイベントを申し込むときに
  • 作品のキャプションに
  • 萌え語りの中で

などなど、色々なところでカップリング表記を用いますね。しかして、2つ目のようなごく事務的な場合を除き(しかしそれも配置の希望に繋がることなので、無関係ではないのですが)カップリングを表記するのは、「『自分はそのカップリングが好きだ・そのカップリングだと認識している』と誰かに知らせたいとき」であることは、ごく自然に体感としてわかってもらえると思います。

その「知らせたい」が、「フォロワーにABだ(BAではない)と知ってほしい」なのか、「AB好きの人に見つけてほしい・つながりたい」なのか……呼びかける対象の広さは場合によるでしょうが、少なくとも、カップリング表記をすることによって、他の人に自分のラベルのつけ方が伝わるのは事実です。

 

また、共通認識とされているカップリング表記を用いることは、その表記を知っていて、かつ、好きだ!と思っている人に対する呼びかけの意味をはらみます。

誰にも気付かれなくていい、とにかく吐き出したい!というようなとき、FF0人のアカウントで、「たろじろ」ではなく「tj」のような伏字を用い、壁打ちをした経験のある人も多いのではないでしょうか。この「tj」もまた『誰にも気付かれないよう、検索しにくく短縮した』カップリング表記の一つではあると思いますが、これがその界隈で「太郎攻め・次郎受けの表記」として認知されていない以上、「太郎攻め・次郎受け」好きを呼び寄せる効果は薄いですよね。

やはり、「たろじろ」と表記するのは、同じ「たろじろ」が好きな誰かに対して、「自分もそのカップリングが好きだし、みんなが『たろじろ』と表記するのを知っているよ」と同胞意識を示したい、という意図があってのことと思います。

このほかにも、「カップリング表記することで、自分はその左右なんだ、揺らがないんだ……と再認識する」「自CPは字がもうかわいいので、たくさん書きたい」など、カップリング表記をすることには様々な理由があると思いますが、

  • カップリング表記をすると、自分がそのカップリングだと伝わる
  • カップリング表記をすると、そのカップリングの人への呼びかけになる

この2点については、以上の通り、納得いただけると思います。

CP表記から読み取れること

ここにカップリング表記があります。

柿の種 × ピーナッツ

ここから読み取ることのできる(可能性がある)のは以下のようなことです。

  • 柿の種が攻め(挿入する)
  • ピーナッツが受け(挿入される)
  • 味が濃い攻めが好き?
  • まろやかな受けが好き?
  • なんだかんだ相性がいい関係が好き?
  • ド王道なCPが好き?
  • 表記するときはフルネーム?

(この表記がおおよそメジャーな認識を持ってなされたと仮定したとき)最初の2点(柿の種が攻め・ピーナッツが受け)以外は全て憶測です。しかしながら、カップリング表記は得てして「柿の種とピーナッツ・その関係性」以上の情報を、受け手にもたらします。*1憶測にすぎない分析も、アイコン画像であるとか、添えられたぬい写真、リンク先の小説のキャプションなどの様々な要素により、補足されたり、強化されたりします。カップリング表記を「カップリング表記のみ」で見ることが少ない昨今においては、ここですれ違いが発生しているように思います。

そのすれ違いがことさら問題になるのは、関係性のあり方に至ったときです。

同じ「柿の種×ピーナッツ」でも、「なんだかんだ相性のいい連れ合い」だと感じている人、「絶対運命黙示録」だと確信している人、「切っても切れないとにかくラブラブな二人」だと癒されている人、様々おり、しかし「柿の種が攻め・ピーナッツが受け」という共通認識だけが、これらの人々を繋いでいます。

関係性のバリエーションは数えきれないほどある中で、もはや性器挿入の方向性の一致のみで繋がっているというのも、BLCP愛好者たちのなかなか珍しくユニークな特徴でしょう。
ともかく、私たちは「柿の種×ピーナッツ」という表記を見たときに、
二人がどのような関係性なのか
についてはそれほどイメージを共有していないのです。
くだんの腐女子大学の過去問題が、あれほど専門家をしても見解が分かれることとなったのは、これが理由です。

少なくとも、性器挿入の方向が判断できるということ、性交を試みることができる、という点から、恋愛関係がイメージされることは多いでしょう。しかしながら、先に説明したとおり、カップリング表記をするということは、対外的に自分の立場を示すことにもつながりますから、「恋愛かはわからないが、とにかく柿の種にとってピーナッツは一番なんだ!」というときにも、その二人の表記を用いることがあります。その際には「強いて言えば……」と後付け的に関係性を性交渉に落とし込み、表記化するのです。実際には性交しない二人を脳内で性交させてみる試みは、やくざパロとかアイドルパロとかと同じように「セックスパロ」とも呼べるのではないでしょうか。

私たちは「正しい」カップリングに辿り着けないのか――主観と客観

さて、カップリング表記の意味と、表記が招く誤解については確認しました。ここからはいよいよ、「はたしてどのカップリングが正しいのか」について、考えていきたいと思います。

といっても、この世にあるすべての作品に言及していくわけにはいきませんから、まずは、「正しいカップリング」について考えていきましょう。

先ほど説明したとおり、素晴らしい原作が描き出す多様な関係性の中で、最も「正しい」ものを選ぶことは非常に困難です。それは、何を「正しい」と考えるか、その基準が人によって異なるからです。会話の多さなのか、物語の結末時点での関係性なのか、あるいは命のやり取りなのか。バロメーターが多岐にわたり、すべてを反映して数値化することはできないと言ってもいいでしょう。

しかし、私はカップリングの「正しさ」を証明したいと思ってしまいます。少なくとも自分がそうだと感じた理由をまくし立て、スクショを見せびらかし、同人誌を書くことによって、「正しさ」の証明を試みます。観測されたからには、何か形にできるはずだ、と。

フッサール現象学の出発点は、近代哲学の「認識問題」だ。「認識問題」とは、人間の認識ははたして世界を”正しく”(客観的に)認識できるのか、という問題である。
(中略)
そもそも近代哲学の出発点で、デカルトは、つぎのような「原理」を提出した。
人間は決して「主観」を出られないのだから、誰であれ「客観」それ自体を参照することができない。だから、主観と客観の一致は、原理的にありえない、と。*2

 残念ながらデカルトは、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」派のようです。争いを好まない性質なのでしょうか。

これに基づくと結局のところ、私たちはカップリングの「正しさ」について証明できないと結論付けなければいけなくなってしまいます。性器の挿入方向以外の共通認識はない、ルールがないのだから、正しさなんて証明しようがないと。

しかし、それでは、なぜカップリング表記を用いるのでしょうか。R18シーンのない同人誌に表記は必要ないのでしょうか?私たちが「この回……めっちゃABやんけ!」と思うのは意味がなくて、すべてが野に帰るべきなのでしょうか?

カップリングを始めとする(?)諸学問について、その始源にまで遡り、その地盤の復興を果たそうとした哲学者がいます。フッサールです。

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フッサールと一緒にカップリングについて考えていきましょう。

直接経験と志向性――確かにそのときABを見た

フッサールが大きく影響を受けた自然科学者にマッハがいます。物理学者としての側面のほうが著名でしょう。マッハは、さまざまな学問の基礎に、「直接経験」があることに気付いていました。

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上の絵はマッハが自分の部屋を描いたスケッチです。右側に見えるのは、小鼻と髭です。座って描いているので、投げ出した足や、ペンを持つ右手も写していますね。

このように、人の持つ認識はそもそも主観から抜け出すことができない、というのが現象学の根本的態度です。さっきのデカルトと同じことを言っているように見えるかもしれません。部分的にはそうですが、さらにこれを発展させていきます。

主観から抜け出すことができないことを十分理解しながら、その主観のあり方、各認識作用を検討することによって、客観に至る。

主観が発端にあることを大いに認めながら、どうしてABであると確信するに至ったのか、その時の自分の気分、時勢柄、バイアス、過去ジャンル等々、志向性から逆算して、客観的な=「正しい」カプとの一致を目指していくのです。

わたしたちは、iPhoneの画面、自分のメガネ、疲れ気味の目など、自分の環境をすべて排し、固定観念も捨て去って、そのソシャゲと向き合っているわけではありません。しかし、ABがそこにあるということは確信しています。いや、このセリフがどう見てもABでしょ、スチルで手を繋いでるんだし……と思われるかもしれませんが、残念ながら多くの場合ABが画面から出てきて、その繋いだ手を掲げ、「ABでござい」と言ってくれることはありません。言ってくれたとしても、「それは営業じゃないのか、一時の気の迷いではないのか、それはそれでいいが……」とまた新たな悩みにさいなまれることになります。

ABがABであることを、主観の外側に出て、確認することができる、という思い込みは、己の志向性――筋肉受け、セフレマニア、同人に疲れて原作が最大手のものを読みたい、etc.――を見落としてしまうことに繋がります。

そこで一度、「なんだかよくわからないけどABを見た」と”客観的”分析をストップすることを、エポケーと言います。日本語訳としては「認識批判」とか「判断中止」というのがよく当てられています。確かにABがそこにあったのを見た、それを受け止め、「○○スト5話のこのセリフはメイン8話のここへの反駁になっていて云々」というような「どうにかして正しさを得ようとすること」を中断して、自分の認識へと注意を向けていくのです。

まとめ――わたしたちが「正しい」カップリングに至るために

自分の認識それ自体に注意を向ける方法について、現象学の本の中に書いていないこともないのですが、哲学的な、普遍的でまどろっこしい物言いをここに引用するよりは、各々個人で内省してもらうほうが良いと思いますので、この辺りで止めます。

もっと詳しくフッサールについて・現象学について知りたい!という方は、以下の本をおすすめします。私も専門ではないので、ぜひ一緒に勉強しましょう。

amzn.to

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結局のところ、私たちはいまだ「正しい」カップリングの「正しさ」がどのように体感するものなのか、客観と一致するものなのか、森の中でさ迷っているような状態です。しかし、自分の持つ志向性、バイアス、様々言い方はありますが、観測した自分自身に意識を向けることにより、主観と客観の一致へ至ることができるのではないでしょうか。

「自カプはド捏造、捏造なんだからみんな同じ」というような思考停止をする前に、自己に潜り、その認識と対話することはできると思います。自カプの正しさを諦めず、そこで得たものを同人誌や萌え語りツイに生かしながら、勝利をつかみ取っていきたいものです。

*1:ちなみに、カップリング表記の定義や記法はこちらのブログに詳しいです

カップリング表記の基本 - あまあまくろにくる コミケのカタログから目視で(!)カップリング表記を抽出し、データ化している、貴重なサークルです。

*2:p.15 竹田青嗣「超解読!はじめてのフッサール現象学の理念』」講談社現代新書