やわらか金融道

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うつくしく強いもの

とにかくわたしたちは当たり前にうつくしいはずのことを「うつくしい」と認めるのに時間がかかる。認めることは世界を広げることで、必ずしも自分の持っていた「うつくしい」ものを否定することではないのに、マジョリティと同じ価値観を持つことそれ自体に恐怖している。水滴が大きな粒へ吸い取られ、合流していくように、自分のあった場所が失われるという錯覚が、わたしたちをかたくなにする。

ずれのあるわたしたちが抱く優越感は、一般に奇妙だとか不快だとか言われるものを好むことで「克服」したような感覚に陥っているためであって、上位に立って安心したい一心で細道に逃げる。多きに同調することで自分の立場を守る方法とは、真逆にして同じ心持ちから発生していると断じていい。

そんなわたしたちにとって、好きなものが適切に評価され、みんなのものになっていくこと、例えば地下アイドルのメジャーデビューとか、キャパ200人のライブハウスから武道館へ、とか、リトルプレスが○○社から解説を加えて出版される、というようなことは、自分の優位性を損なう危機である。少数であることと、美徳とが頭の中で強く結びついてしまっているから、そうなるともはや切り捨ててまた一層厚くなった殻にこもるほかなくなっていく。

必ずしも逆張りではなく、先にこちらが存在していた、後からあちらが追ってきた、という意識がまたわたしたちをかたくなにさせる。つまるところ、私たちの敵とは進み続けるということである。

わたしたちの真に望むのは永く生き続けることではなく、この一瞬をすべてにすること。横に引き延ばすのではなく、縦に満たすこと。その中でだけ自由に泳ぐことができる、と経験ですらなく、ただ予感している。

二次創作は変わらないものを押し広げて慈しむ行いで、緩急とかリビドーといったものは肉体側に掃き捨てられる。わたしたちはその先で永遠を見ようとしているのだ。

 真にうつくしく、信じるに値するもの、よすがとなるものは、期待すら抱かせず、存在することそれ自体でわたしたちと世界とを取り持ち続ける。その役割は透明で、いかに貴重なものであるかに気付くのは、たいてい失ってからのことだ。しかし喪失の痛みすら、かつて〝それ〟があったことの証明として、わたしたちをかろうじて動かす火種となる。日々はそのように過ぎていき、思うのは永遠と過去のことばかりである。

わたしたちは「今、ここ」に生きることができない。現実に帰るには膨らみすぎた自尊心の、その表面はあまりに柔く擦れて傷つきやすい。破れても血さえ出ないその腫物を、後生大事に育てて、今ではどちらが主体なのか判別つかなくなっている。

そこにあるのは淡く儚い感傷ではなく、文字通りの切実で、実際、ふいに心臓が痛んでかがみこむほど、わたしたちはうつくしさに侵されている。依存症である。唯一信じられるもの、失うと耐え難い苦痛をもたらす悪魔。