やわらか金融道

オタクブログとオフ情報

最近はずっと口の中が苦くて、飲んでいる薬のせいなのか、よく吐きそうになっているせいなのか、何か違う理由があるのか、まったくわからない。携帯の料金がどうやって支払われているのかも、年金どうなってるのかも、この先どうなっていくのかもわからない。ずっとぼんやりしている。

あるスマホゲームで「平凡」な少女が実装されたそうだ。わたしはそのゲームをプレイしていないから、彼女のことはわからない。ただ、「あまりにも平凡であることを噛みしめながら、何かをなせるなら、その時点でもう非凡だ」というユーザーの感想がぼーっと目に入ってきて、なんだかずっと泣いたり叫んだりしていた。正確に言うと叫んでいる記憶はなくて、認知症の始まった母が、深夜トイレでうなされているわたしを部屋まで運んで寝かしつけたらしい。わたしの家には信用できる記憶を持っているひとが誰もいないのだ。

平凡であることと非凡であること。その境界がわからないし、自分はずっと特別な人間であるような気がしている。この年になって、なんの実績も持たないまま、それでも約束された何かがあるような、その一本の糸だけでどうにかここまでこぎつけている。しかし誰にとっても自分は特別なのだ、自分だけは命を持ち、それを続けなければならず、あるいは終わらせなければならない、責任を持った一個体なのだから、他と比べて何か違うように感じるのは当然のことで、急に「凡」とか「みんなとおなじ」と言われても全然受け入れられないのは当たり前のことだ。

特にこの意識の育ちやすいのは、「みんなとおなじ」ことができなかった人間だ。体育の時間に跳び箱の上で前転できなかった。スーパーマリオがいなかった。その違いは大きくなってみるとごく些細なものだが、確かにその時そこにあって、わたしがわたしのなにか特別なものを確信するあまりにもかすかな根拠になっている。

わたしはわたしでしかなく、外から見る体験もできないから、自意識の大きさというのもわかっていないし、一生わからないままぼんやりと過ぎていくのだと思っている。頭の中に灰色の綿が詰まっている。毛玉取り器の出すゴミのような格好で。

さみしいとかうつくしいものが見たいとか特別な何か、というものは結局のところ一つに収束するはずなんだけど、その一つというのは数えることのできる塊ではなく、一本の糸にそれぞれの要素が絡まり引っかかってランダムに作った結び目が、そのよすがが一本であるがためになにか筋通って見えるという意味であって、カウンタブルなものではない。ただそれに名前を付けたり、トリミングして切りうることのできる人が希少だというのはほんとうのことで、なぜなら営みそのものを共有することでわたしたちは安心することができるからだ。その形が整っているかとか色の選び方がいかに優れているかなんてことはどうでもよく、同じことをして暮らしているという事実そのものが、信号のように光で届く。その光は届きさえすれば特別で、かけがえがなくて、うつくしい。結局他人の中にしか本当のうつくしさを見出せないということなのかもしれない。

だから平凡であるとか特別でないといったことはわからないままでよく、わたしは毎日結び目を作っています、誰に届けるでもない光を編んで、日々暮らしています。その届け方について泣きながらずっと考えている。