やわらか金融道

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センシティブとか残忍とか

気持ち良くなるために行われる猟奇や尊厳破壊。リョナ。これらはゾーニングされ愛好者の中で語られておしまい、というのが今の社会では一般的だし、好む側の人間としても妥当だと思う。何も、自分と違う考えの人を傷つけるから……なんて優しいものではなくて、咎められるのが嫌だからというのが一番大きい。ましてや社会に影響を齎したら、フィクションと現実のライン引きができていない人間がそれをしたら? そう考えるとゾッとする。
ただ、物語には尊厳を破壊する必要があることがある。現実を生きる人間の屈託や嘆きを、実際には一人も死者の出ないまま、形にしてくれるのが物語における残忍な描写である。

もちろん、そんな気のない作品だったのに、必要だったとは思えないのに、それが痛く苦しいことだと描かれないままに、描写されることは読者にとっては辛いことだ。自分の好きなものが壊されるのを見るのは辛い(らしい。私は正直ここがわからない)。

辛いなら本を閉じればいい、と言えた時代は遥か昔、私たちは物理的に隔てられ、話を聞いて適切な付き合い方を提案してくれる理解者や、自分にもっと寄り添ってくれる物語にたどり着くことが難しくなっている。コンテンツは日々増えクオリティを高めていく。その方向は基本的に「あなたに愛着を持ってもらいたい」という方向性だ。特に長期連載やソーシャルゲームにおいては。

ただ、その登場人物の気の利いた一言、友人らの楽しげな雰囲気、リフレインする強いキーワード……を押してねじ込まれたその描写は、なにも誰かを傷つけようと思ってなされたものではない(ことが多い)。特に、「あなたに愛着を持ってもらいたい」コンテンツなら尚のことそうだ。

例えばソーシャルゲームには文字制限がある。1タップで何文字、何タップ以内にこの話をしないといけない……そういう決まりがあって作られていて、かなり厳しい。

漫画にもコマがある。文字通りそれは枠であって、無限にページを貰えるわけでも描けるわけでもない。限りある中で何を描くかは選択だ。

(余談ではあるが、そういう意味でもっとも融通が効くのって小説だ。全部書くことができなくても、一言くらいはねじ込むことができる。)

結局何を言いたかったのかそろそろまとめようと思う。もちろん、趣味娯楽である以前に自分の人生だから、受け入れられないものは拒絶して構わない。それでも相対化して、作者がなにかとても悪いことをしたかのように言うのを見るのはやっぱり辛い。自分が深く受け入れた物語を否定されることも、信頼している相手を糾弾されることも結構キツいのだ。

社会において他害は許されるべきではない→物語においても慎重に描写されるべき→その配慮をしていない(ように見える)制作者を責めるのは当たり前、という流れができているような気がして怖い。次のイベントに好きなキャラクターが出てきて、そのファンたちはそいつを大切にしているのがわかるから、余計に怖い。自分だって人一倍思い入れがあるはずなんだけど、おまえのそれは「好き」じゃない、と言われているような気が──わりと昔からしていたけど──9章4節の感想を読みながら強くしたのだ。

人が物語に求めているものはそれぞれ違う。そもそも人はそれぞれ違うのだから当たり前だ。それでもやっぱり──気持ち良くなるための言い訳としてではなく、心底本音として──残酷さを希求する気持ちを知ってほしい。わずか少しでいいし理解されなくてもいいけれど、そういう人間もいると認知してほしい。現実では決して許されることのない出来事が、物語を通してのみ提示されるそれは数少ない。その中で本当に自分を救ってくれるものはひとつまみしか存在しない。

まあ、最終的には篭ってしまえばいいわけだけど、出来ればそれをしたくない。久しぶりに好きなキャラクターがイベントに出ることになって、しかもそれがセンシティブイベントだったから怖いよ!という話でした。

原稿が終わらない……。

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